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国史跡の白河関跡にいってきたよ
白河の関は鼠ヶ関、勿来関、は奥州三関の一つです。東山道に設けられた関門です。設置年代は不明で5世紀前半に設置したとされているそうです。
平安時代中期には関所としての機能を失っていたようです。そして長らく使用されていなかったため遺構は失われ位置もわからないほどになってしまったのだとか。それを当時の白河藩主松平定信によって空堀や土塁のあった場所を白河の関とし古関蹟という石碑を建てました。下がその古関蹟です。
そして昭和に入り発掘作業をした結果、その年代の土器や建物跡などがでてきて、国でここが白河の関跡として指定したという経緯があるそうです。
見出しが白河の関いってきたよって、なんともありきたりなものになっています。それには理由があります!(笑)
なぜならこの白河の関は今現在通っている主要な道路からは外れている場所にあるからです。現在主要な道路というと栃木県から福島県に入るときは4号線と奥州街道から入るのが一般的です。ところがこの白河の関跡は東山道という道に築かれたというじゃありませんか。
陸奥に入るための要所としてこの関所が築かれたのなら、現代の感覚だと奥州街道にあるんじゃないのか!?と思っていた無知な自分。
東山道という道自体が奥州街道ができるはるか以前にできた当時の主要な道路で、なるほどと勉強になりました。実際この道は車を走らせるとすれ違う車もほとんどないくらいに交通量の少ない道路になっていました。
数々の伝えのなかでも、なにより一番目を引いたのは従二位の杉だった
従二位の杉という鎌倉前期の歌人だった藤原家隆という人が手植し、奉納したと伝えられる杉が本当に立派でした。樹齢が推定約800年で幹は太くそこからでてる枝ってよんでいいのかもわからないくらい立派なものがたくさん広がるように空を覆っています。根本にたって上を見上げると思わず息がもれるほどでした。800年前に植えられてきっとたくさんの人によって触れられてきたであろう幹は、たくさんの思いを宿してるんじゃないかって思うと鳥肌ものです。
幌掛の楓、矢立の松、白河楽翁公100年祭記念植松
なぜこの楓に幌をかけて休息したのが伝えられてきたんだろうと不思議に思いました。
この矢立の松もそうです。源義経が平家討伐の際にこの松に矢を射立てたと伝えられているものだそうです。松自体はなくなっていて根株がすこしこの石の下にあるみたいです。
でも言い伝えられてるくらいだから本当かどうかはわからないですけど、それがこの白河の関跡に関する歴史の長さを物語っていていいですね。
これは白河藩主松平定信が白河にきて100年の時に植えられた松なのかな?途中で桑名藩に移っているから白河楽翁公100年祭記念で調べるとあっちの情報が多く出ますね。
ちなみにこの松を植えた松平定晴という方は定信の一文字を取った名前なのでご子孫の方かな?と思い調べてみると、どうやら桑名藩5代藩主の子だそうです。明治に入り桑名藩知事、そして子爵だった方のようです。
白河の関 古関蹟の奥には白河神社
古関蹟の向こう側は白河神社への参道になります。ここにも立派な杉の木が両側に立ち並んでいます。この日はちょうど社殿の修理が行われていました。屋根が青から黄金色?にずいぶん綺麗に修復されていました。
白河神社の側には、白河の関を訪れた歌人の歌が掲示されてました。歌に関しては全く無知で何を言ってるのかさっぱりわからずww
神社右手には土塁や堀が確認できます。
まとめ+やっぱり最後に従二位の杉を再度眺めて帰った
帰る前には再度、従二位の杉を10分程眺めて帰りました。どんだけ好きなんだよ。でも本当にすごかったんです。言い伝えはたくさんありますけど、木の年齢は確かですからね。当時からあそこにあったのは間違いなく今現在でもわかることですもの。
場所的には白河のはずれにあり、なかなか地元の人でもふらっと立ち寄るには少し遠い場所だと思います。ただ白河の関跡の側には広大な公園があり、食事処も数件立ち並んでいてそこに来る地元の方がおひるに来てるのかなという印象でした。公園内は今回は行かなかったんですが、次訪れる時は食事と公園を楽しめたらなと思います。
下写真の左手が食事処となっています。蕎麦とかだったかなあ。