戊辰戦争白河口の戦い。激戦地・稲荷山に行った行ったよ
スポンサーリンク

戊辰戦争から150年。激戦地となった福島県白河市。

2018年平成最後の年に戊辰戦争150周年。

戊辰戦争と言っても高校時代に日本史でも取っていないとさっぱりという感じだと思います。日本史は勉強していないものの歴史は好きでした。ですが戊辰戦争というと幕府と新政府の戦いで鳥羽伏見の戦いから江戸城無血開城、そして五稜郭で新選組副長の土方歳三が倒れた…くらいの知識しかありません。(るろうに剣心や、なんかのアニメで漠然としか知らなかったw)

そんな自分が何気なく出身地の白河市のことをネットで調べているとなにやら戊辰戦争150周年記念事業という文字が目に飛び込んできました。

政府軍がこの白河市にもやってきたのは知ってましたが、調べるとまさか激戦地だったとは思いもよりませんでした。

小学生のころ毎日通っていた登下校の道が新政府軍が歩いてきた道だったなんて。白河市小丸山方面から、稲荷山の石碑がある場所です。毎日目にしてたはずなのに興味をもとうとしなかった…。戦死者の墓と大きく刻んであるのはわかったのに学校でも教わることはありませんでした。それとも自分が忘れてるだけ?w

とにかく大人になった今、とてもそれが興味深くなり初めて激戦地になった白河市の稲荷山に訪れました。

戊辰戦争 白河口の戦い 稲荷山

圧倒的な兵力差

この白河での戦いは「白河口の戦い」と呼ばれていて、当時白河藩主だった阿部氏が棚倉藩に移され、白河藩主が不在となり幕府領なったころに起きたものです。

兵数差は当初旧幕府軍を始めとした奥羽列列藩同盟諸藩軍2500、新政府軍700と3倍以上あったのにも関わらず、最終的にこの白河口の戦いでの死者数は列藩同盟軍927名、新政府軍は113名となり圧倒的な差です。そして今回訪れた稲荷山は幕府軍の主力部隊を配置していたそうですが、新政府軍の圧倒的な戦力によって後退することになります。その後白河の城主不在である小峰城は新政府軍に占領され、7度も奪還しようと試みましたが、失敗に終わります。そして舞台は会津へ移り、白虎隊をはじめたくさんの悲劇が起きるのです。

戦死者の碑がある激戦地・稲荷山

戊辰戦争の碑

この激戦地となった白河口の戦いの稲荷山。稲荷山の下に奥州街道があります。その道を挟んで二つのお墓があります。写真の一つ目は長州大垣藩の墓、2つ目は幕府軍側の奥羽越列藩同盟の諸藩のお墓です。

この稲荷山では一日で幕府軍側が700人もの死者を出した場所になります。

長州大垣藩の墓

奥羽越列藩同盟の墓

列藩同盟側のお墓の向こう側が稲荷山です。そんなに大きい山ではなくちょっとした丘という印象です。

白河稲荷山

登りきると奥の方に小丸山方面が見えます。自分が小学生の頃は田んぼしかなかったのにとても見づらくなりました。

白河稲荷山

奥に道路があるのがわかると思います。あれが奥州街道です。新政府軍はあの道からこの稲荷山に向かって行進してきました。私が立ってたこの場所で旧幕府軍側の兵士達は向こうに少しかすんで見える細い道から新政府軍を待ち受けたんですね。どんな雰囲気だったんだろう。きっとそれまでの新政府軍の強さというのは聞いていたのだろうから、怖かったのか、それとも勝てると思っていたのか。武士というものを知らない時代に生まれた私にとっては想像が難しいです。

そして稲荷山右手をむけば那須連山です。

稲荷山 那須連山

少し下から見た稲荷山。

中央に立ってるのは戦没者名簿です。

戊辰戦争 白河 戦没者の名簿

そしてこの稲荷山の木々は白河小峰城の復元三重櫓にも用いられました。ここは激戦地になった場所なので使われた木々には弾痕や鉄砲玉跡があり、それをそのまま使用し三重櫓の材木になりました。

稲荷山東側には正一位権兵衛稲荷神社

スポンサーリンク

まとめ 学生時代の登下校道が特別な道になった

冒頭でも言いましたが、いつも通っていた道が実は特別な意味のある道なのを今回知りました。普段何気なく幼い頃あるっていた道は先人が作り上げてきた歴史でもあることを実感した一日になりました。きっと普段の生活でも私たちが気づかないだけでこのような事例はたくさんあるんだろうなあ。

これがあるから歴史は面白いと思います。他にも白河市には戊辰戦争に関係のある寺院やお墓がたくさんあるみたいなので次回はそういったところも歩いて散策できるといいなと考えています。

スポンサーリンク
おすすめの記事